●DEAD ENDのLIVEレポート

1986年6月19日 バーボンハウス 

デビュー直前のものです。DeadLine発売記念ライヴです。この日バーボンハウスに800人ほど入っていたといわれています。 

選曲はアルバム順です。A面、B面で区切ってあり、合間の休憩タイム(?)に「パフューム.オブ.バイオレンス」他2曲(?)のアンプラグドをMORRIE,TANOでやっていました。その時TANOが「YOUはただのヘルプだという噂があるが正式メンバーだ。」という発言をしていました。しかし自分がやめるはめになるとは・・・・。
演奏自体はまだこなれてない面があったと思います。ボーカルのミキシングが悪く、なにを歌っているか分からない状況でした。(ライブ・ハウスではいつものことですが・・・) MORRIE,JOEは相変わらず「たわけ!」などと今思えばすごいMCを入れていました。JOEはクルクル回るメジャー前のアクションでしたね。MORRIEはステージ中央から動かずまさに一心不乱に熱唱してました。

後のメジャー時に比べれば完成度ということでは低いと思いますが一番熱い時代のライヴだとおもいます。お土産に「レプリカ」の初期バージョンのソノシートが配布されました。(ギターがヘロヘロ・・・)

'98年9月 by paul stanley








この時のメンバーは、Vo. MORRIE  G.YOU  B. COOL JOE  Dr. TANO
であると思います。
写真はこの時のものではありません。
一心不乱ぽいのでこれ位の時代がな?というイメージ。
霧香様より。)



1988年12月21日(水) 渋谷公会堂

念願のDEAD ENDライブを見た。

CDに比べ、音は薄くなっているはずなのに、独特の雰囲気はまったく損なわれず、客のノリが更に空間を盛り上げて、女の子達は仲間で振りを合わせてステップダンスを踊り、当時のハードロックバンド(少し違うけど)にはなかったグルーブ感がそこにあった。咳止めシロップ1本イッキして行った僕も、最後まで踊り狂い、こんなに楽しいライブは初めてだと感じたのを良く覚えている。

出会いは高校の頃にさかのぼり、その頃X(エックス)が持っていたライブハウス動員記録を塗り替えた噂のバンドがDEAD ENDだった。 すぐに、レコードを手に入れたバンド仲間に聴かせてもらい、オカルト系大好き少年だった僕は見事にハマった。その後、GOHST OF ROMANCEを聴いて完全に引き込まれ、それを大音量で聴きながら、H.R.ギーガーの画集を見て思いっきり入り込むというのが最高の時間となった。(少しあぶない)

あれから10年、幻想的で、荘厳、おぞましくて美しいDEAD ENDの世界は、今の僕自身を形成する大きな要素のひとつとなっている。

'98年3月 by COUNTER CLOCK WISE デザイナー 尾竹 宣彦 



尾竹 宣彦氏は、最近、DEAD ENDを自らのルーツと
再確認しつつ、
服やジュエリーのデザインをされているそうです。
彼の作品も掲載しました。

デザイナー尾竹 宣彦氏の作品はこちらで見れます。


(1988年、DEAD ENDは5月にメジャー2枚目のレコード「Shambara」を出し、その年の後半はホールツアーを行っています。この時期のDEAD ENDライブは、会場を自らの世界に引き込む力があり、大変充実していたと聞き及んでいます。
当然、メンバーは、Vo. MORRIE  G.YOU  B. COOL JOE  Dr. MINATOです。
この年の9月に渋谷公会堂で行ったライブの様子はビデオ化され、「Psychoscape」として発売されました。尾竹氏の話によると、12月21日渋谷公会堂のライブの曲目や舞台セットは、「Psychoscape」に近いものだったということです。同12月に、シングル「BLUE VICES」が発売されています。

当時のMORRIEは、ロッキンf誌上で自らの生活を「読書、ビデオ観賞、それらを総合した創作ですごし、小説も書いている。」と語っておられます。早寝早起きになってしまい、夜10時就寝、朝6時起床とか・・・若かったのに。)



このページの写真は、BMGジャパン様には掲載許可をいただいています。
但し、肖像権についてのMORRIE自身の確認はとれていません。